(男)オタク論について

 この本でもそうなんだけど、どうもオタク論・オタク文化論のようなものを読むと、先日2年生ゼミで読んでたジョーン・スコットの議論を思い出してしまう。
 つまり、斎藤環の『戦闘美少女の精神分析』とかこの東さんの本とかそうなんだけど、男オタクの話なんですよね。そして書いてる人間の経験を下敷きにしている。もちろんそれでいいわけだし、男オタクについても自分だけじゃなくて、いろいろ聞き取りとかしたり臨床例とか見ているはずだけど、やはり本人の体験がかなり立論の基礎をなしているところがある。だからこそ、大塚英志の議論と東浩紀の議論とで、ああいうふうにスタンスというか、目のつけどころが異なってくるわけだし。
 だが、それは書き手の性別に内容がしばられてしまうことも意味する。女の経験は女でないと言語化できないと言うつもりはないけど、実際男たちが女性の経験を無視した理論化をしているのを見ていると、やっぱだめなのねと慨嘆を禁じえない。まあ、東さんは『動物化するポストモダン』の中では、女性をめぐる問題の一部について、「自分には分からないところがある」ときちんと断っているから、その限りではある意味誠実。
 手広く女オタク論・女オタク文化論をやってる人というと、「女子ども文化論」の荷宮和子やおい論をまとめた中島梓、あとは小谷真理さん、ということになるだろうか。まだこんな程度なのである。斎藤美奈子は男の子文化と女の子文化の両方を扱っているが、必ずしもオタクが射程に入ってないのでここでは除外。少女マンガ論やレディコミ論もはずしておく。*1
 ところで歴史学者のジョーン・スコットは、女性の経験をあつかわない従来の歴史学に対して、女性史は「人口の半分の経験を無視して、何が専門家だゴラァ」という厳しい挑戦をしているのだ(そしてそれは、単なる付加ではなく、歴史学を根底からひっくり返しかねない挑戦でもあるわけだけど)、と言っているわけだが、この言葉はそのまま、無自覚な男オタク論にもあてはまる、というと言いすぎだろうか。*2(もっとも、男オタと女オタの人口比は1対1ではない可能性はあるので、単純に比喩として用いることはできないかもしれないが。)でもまあ、少なくとも東浩紀ふうにエクスキューズを入れるぐらいでないと、普遍性を僭称することになってしまうことは確か。男オタの議論だけですべて片づけられるのか、ということだ。共通するところはそれでいいんだけど。

*1:もっともこのへんで、お前は?とかいう質問が飛んできそうだ。

*2:contractioさんのところで学んだ文末セリフ。びみょーにオブラートにつつんだ感じになるらしいです。よくわかんないけど。