小野不由美『丕緒の鳥』

 十二国記最新刊の短編集。「つらくなるから気をつけて。」と同僚に言われていた。確かに厳しい内容の話もあるが、小野不由美は常にその先の希望を示してくれる。この本も同じ。
 最近どうしても、読むものに震災を重ねてしまう。今回は、特に「風信」。(風信は「風のたより」の意。)この話は慶の予王(舒覚)の末期から始まる。予王は悋気を病んで、国から女を追放する勅令を下した。主人公の蓮花も、国にいられなくなって、里を離れる。
 小さな子どもを連れて国を後にする女性たちの姿は、まるで母子避難する福島の母親たちのようだ。「『この子を抱えて逃げたんだけど』と、つい先日戻ってきたばかりの女は言った。『外は本当に大変だった』」(本書p.322)
 慶国にとどまっていては命が危うい。だからといって、外に出れば安泰かというと、そうではない。そもそも道中でさえ、傾いた国なので妖魔は出るし、その後は偽王が立って内乱も生じている。
 里を離れれば、何につけ金も必要だ。幼い子どもを抱えての旅は、何倍もの苦労だろう。隣国の雁は保護をしてくれただろうが、こちらの国内には入れない。
 暦を編纂する支僑たちの姿は、蓮花には「浮き世離れ」して見える。しかし、彼らの活動は、国が傾き、天変地異が徐々に増えつつある中で、農事を支え、民の生活を維持するためには重要なものだった。
 やがて燕が戻ってくる。「こんな時代でも、巣を作って雛を育てるのね」と蓮花が出会った母親は、涙をぬぐいながら彼女に言った。
 震災のひと月半のち、津波の被害を受けた南相馬と相馬を訪れた。遅い桜が、ちょうど花盛りであった。同行した友人は、こうもらした。「こんな時にも桜は咲くんだね。しかも、とんでもなくきれいだよね。」
 燕を見ると「なんだか泣けてしまって」という母親に、二年前の自分が重なった。あのときに見たソメイヨシノは、いつも目にしていたものとは意味が違っていた。人にとってはつらいことがあっても、変わらない自然の理。それになぜかはげまされたような気持ちになっていた。
 小野不由美が執筆にあたって震災を意識したかしないか、それは重要ではない。受け手が、自らの置かれた文脈で、物語をどう受け取るかが大事なのだ。涙し、はげまされた物語に、そっと感謝を送りたい。