「分ける」こと

 inainabaさんからトラバいただいた(id:inainaba:20041116#p1)。なんというか、inainabaさんにしてはめずらしく、歯切れの悪いトラバだったんじゃないかなと思う。
 大学(だけじゃなく、学校全般)を外に開くことについては基本的には賛成で、学部生のときも阿部謹也のゼミに市民が来てたりするのを見て、「そのうちやってやろう」とひそかに決意してたりしてたし、今も自分の講義は全部公開授業*1指定してあったりする。ただし、なんでもかんでもオープンにするような開き方は問題だろうし、今の時代、高校からそのまま来た*2学生と親・家族との関係というのは、ちょっとまた特別なんではと思っている。
 というのは、やはり最近の学生は(なんて言えるようになってしまった)高校時代を引きずっているようなところがあって、学校では「教えてもらえるもの」と思ってるふしがある。同期で福島大学にきた同僚などは、「みんな答えを知りたがる。」と憤慨していたことがあった。そういうのはもちろん論外。自分としては別に「教えない」というつもりはないし、「教えたい」のだけど、「何を教わりたいか」は自分で選べる、というか自分で選ぶ力をつけて実践する、それが大学で「教わるべきこと」なのではないか、と思っている。
 そして、そのためにはいろいろなしくみを学ぶ場としての大学は持っている必要がある。「公権力」の排除が問題になる場合もあるだろう。だが、それにも増して今の若い学生にとっては*3、親の目とかが邪魔になる場合もある、ということを自分としては考えているわけだ。特にセクシュアリティジェンダーの問題は古い世代との対立も容易に生じうる。親の目は「公」のものではないが、ある種の権力作用(フーコー的な権力作用と言ってもいい)を子どもに対して持ちうる。それを素通しにしてしまっていいとは思えないのだ。
 まあこんなことを書いているが、大学における一番強烈な権力作用は教員‐学生間に発生するものであるわけで、それが基盤になってキャンパス・セクハラやアカデミック・ハラスメントなんかも起きるので、わたしたち自身が自分が行使する権力作用の効果に敏感である必要があるのは言うまでもないが。
 また、「スポンサーである親が子どもの教育をチェックして何が悪い」という意見はある意味もっともなのだが、今の時代子どもの成熟が遅いことを考えると、(たとえば教員が否応なしに手紙を出して親を呼ぶなんていうような)子どもを飛び越えたかたちでの過剰なチェックが成熟を遅らせてしまう、ということも考えられる。むしろ理想を言えば、何を自分の子どもが学んでいるかは、子どもと対話しながら理解してほしい。子どもが、自分がやっていることを親なりなんなりに知ってほしいと思ったなら、精一杯説明するだろうし、人に説明することで自分の理解を深めていくというプロセスもそこで作れるだろう。(難しいけど。)
 あと、こういうことがあるとき、わたしは徹底して学生の側に立って考えてしまう。(行動するかどうかはまた別。それは教員としての立場もあるので。)自分にまだ教員としての自覚が不足しているからかも知れないし、あるいは赴任2年目で学生委員をやらされて、カンニングキセル、性犯罪(被害・加害両方)、傷害事件、等々、ありとあらゆる種類の事件を担当したときに、同じように「徹底して学生サイドに立って考える」学生課のある職員の態度に胸を打たれたということもあるだろう。それがパターナリズムにつながる危険は自覚しつつ、これからもそうでありたいと思う。少なくとも、特に自分の研究テーマとの関連で、先ほど書いたような点についての懸念がぬぐいされない以上、「ゼミとして」(つまりオフィシャルに)学生の利益(精神的平穏や、人間的成長、人権、など)を将来的にではあるにせよ損なう可能性があるようなことを、不用意には実行に移せないなあ、ということを考えたわけである。ただそれだけだ。

*1:講義のうち約半分の回を、学生でなくても数千円で受講できるシステム。ただし単位などは出ない。

*2:もちろん一浪・二浪ぐらいはしててもいい。社会人とかでない、ということ。

*3:いや、昔からだったと思うけど。