中山可穂、『サグラダ・ファミリア』(新潮文庫)
- 作者: 中山可穂
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2001/11
- メディア: 文庫
- クリック: 4回
- この商品を含むブログ (14件) を見る
主人公はピアニスト。いつも演奏会の後は無性に女がほしくなる、のだという。だが、はじめて本気になった恋人の透子とは、1年で別れてしまった。
その彼女が子どもを産んだ。相手はパリで会ったゲイのピアニスト。子どもがほしかった透子は、「ほとんど強姦」のようにして彼とセックスし(もちろん襲ったのは透子の方だ)、そして子どもができた。
だが、彼女は交通事故でいきなり死んでしまう。残された子どもを親戚は引き取りたがらない。父親は行方知れず。結局主人公は子どもを引き取り、父親の元恋人と一緒に育てることを決意する。
主人公の響子、父親の恋人の照光(照)、そして透子の子どもの桐人。血縁も性関係もない三人だが、響子と照は婚姻届を出すことにし、桐人を引き取る。
たまらなかったのは、響子がコンサート本番でピアノを弾くシーン。そしてその後。
怪我をして指があまりうまく動かないこともあり、アカデミックな演奏は降りた響子だが、桐人が聴いている、桐人を通じて透子が聴いている気がする、そのことが彼女に力を与える。旧友の指揮者がふるタクトに合わせて弾くコンチェルト。「無限に触れた」――と響子は心でつぶやく。
音楽でもなんでもいいのだけど、「できた!」という思いはとても大きな感動と成長をもたらしてくれる。自分にもささやかではあるが、そんな経験がある。それを思い出してしまった。ちょっと涙がにじんでいたかもしれない。ジーン・アウルのファンタジー『大地の子エイラ』でも、エイラが女には禁じられている猟のしかたを懸命にマスターしようと、自分でいろいろと工夫しながらスリングの使い方を習得するシーンがある。その「やった!」というエイラの気持ちに、そのときもシンクロしてしまったことを覚えている。(芸術と手業の区別をここではあえてしない。それはあくまでも近代以降の文化のヒエラルキーの中での区別だから。)
だがこの本がすごいのはそれからだ。ここからが本番。ページを1枚めくるといきなりさっきまでの感動は吹き飛んでしまう。とびきりいい演奏をした後に、子どもがお腹をすかせている現実に直面させられる、この落差。いや、これが子どもを育てるということなのだ。だががまんできなくなった響子は、照と大げんかを始めてしまうのである。
三人で住む家を借りようとするときも、自分たちの手持ちのお金、ピアノ、子ども、猫(響子は猫を飼っている。春雨という名前の、昔透子にもらった猫だ)という三重苦に苦しむ。やっと見つけた家は、駅から自転車で十分。「ここいいよ」と照は言うが、なんだかサラリーマンが通勤片道1時間半のマンションを買うときにいうようなことばを思い出せるセリフだ。
だがそんな現実にもめげず、三人は新しい生活をスタートさせる。「わたしたちは家族だ。」サグラダ・ファミリア、「聖家族」だ……と。
先ほど書いたように、桐人と響子、照の間には血縁関係はない。響子と照はそれぞれ同性愛者だから、ここに性関係はない。桐人の母である透子は響子の元恋人、父である雅行は照の元恋人。また響子にはカノンという女性とのつきあいがあり、照は桐人の親戚にあたる若い弘をひそかにねらっている。だから弘とカノンの二人もサグラダ・ファミリアに含めて考えていいのかも知れないが、むしろ家族が「開かれていること」を表わすものとここではとらえておこう。
三人をつなぎとめるものは、戸籍でも血縁でもない。ただ、相手への、あるいは相手を生んだ人への愛情、お互いへの信頼、そういったものだけだ。だからひょっとしたら、いつか壊れるときはあっけないかもしれない。でも、壊れやすいかもしれないからこそ、大事にしなければならず、それゆえに強く結びあえるということもあるだろう。
現在もなお主流である「近代家族」は、親および親から生まれた1〜2人の子どもを基本的成員とし、外部者を排する構造を持つ(閉鎖的小規模核家族)。お互いが情緒的絆で結ばれ、特に子ども(特に教育にかかわることがら)が家族の関心の中心をなす(愛情規範・子ども中心主義・教育家族)。またこの家族は、性別役割分業に基づく編成もされている。
一見うまくいっているようにみえる「近代家族」も、いろいろな面でほころびを感じさせている。70〜80年代からすでに既婚女性へのストレスが問題化されており、さらに「愛情」という名の管理に息づまる子どもたちの反乱もあった。だからこそ、ファンタジー文学の中では親子関係を「脱血縁化」したり(小野不由美の「十二国記」)、家族以外の居場所を重視する(ハリー・ポッター)ような物語も増えてきているのだろう。
そういう意味では、この物語もまた、現代における「家族のファンタジー」の一つなのだ。きっとこの「家族」は、短期的にはともかく、永続的に固定されてはいないだろう。それもまた、一つの「家族の姿」であるはずだ。