おせちとお雑煮

 実家のおせちは、黒豆、煮物、田作り、キンカン甘露煮、きんとん、なます(だいこん、にんじんに、干し柿とゆずもいれる)、れんこんの酢漬け、あとは伊達巻きやかまぼこなどを買ってくる。お雑煮はおすまし。にんじんやだいこん、小松菜、ささみなどを入れてあっさり醤油味で仕上げ、そこへ焼いた角餅をいれる。吸い口にはゆずを必ず用意する。関東風なのだろうが、実は母親は奈良だし、父方も福知山である。なんでまたこんなお雑煮なのかあまりよくわからない。
 そんなわけで、わたしもお雑煮というとおすましを作る。一人暮らしだとそれで朝昼食べてしまっていたが、さすがに東京の家で4人いると一回食べきりになるので、もう一日は毎年味噌仕立てにしていた。具はにんじん、だいこん、小松菜、と同じもので、味付けはかつおだしの合わせ味噌。焼いたおもちを落とすのは一緒。
 今年は趣向を変えて、先に書いたように、2日は会津のこづゆにしてみたのだが、不評だった。「まずかったのだろう」と言われるとそれまでなのだが。確かに初めて作ったので、まだ不慣れなのは認める。もう少し研鑽することにしよう。
 おせちの方は年々縮小再生産気味で、煮しめとだし巻き、なます(最初はだいこん、にんじんだけだったが、実家に合わせて最近は干し柿が入るようになった)を作るのは今年も変わらず。ただしほかはみんな市販のものになった。かまぼこ、きんとんはいいとして、昆布じめ、田作りも市販品。
 こういった食文化は地域文化として共有されてきたものであり、家族のlinageを介して再生産されているものでもあるが、社会移動が激しくなり、消費社会化が進展すると共に、忘れられたり、産業に吸収されて画一化していくものでもあるのだろう。消費社会的といえば、「これとこれとこれ」といったふうに、おせちのつめあわせも着るものなどと同じように、カタログから品目を選ぶようになる時代が来るのかもしれない。
 だが何か一つでも、人のつながりのなかで、集団独自の文化として維持できるものがあればよいのだがとも思ったりする。別段linageの中で受け継がれていくものでなくてもよいのだが、「家族」*1のようなものとして集まった人びとの中で、毎年繰り返し作るものとしての「定番」が、きちんと保たれるような文化のありようは作れないだろうかと思う。

*1:特に近代家族的なものをイメージしているわけではなく、血縁や婚姻関係があってもなくても、何らかの親密な関係を有する人びとの集まりということで考えている。