特殊講義・ジェンダー論:ポスト構造主義フェミニズム

 先週と今週と、「ポスト構造主義フェミニズム」がテーマ。もっとも、「ポストモダン」の話もしてますが。取り上げる論者はジュリア・クリステヴァミシェル・フーコー。まあクリステヴァの差異派っぽいところはあまり好きではない(なんだか本質主義的なのがイヤ)*1ので、そのあたりは説明はするけど高くは評価しない、というスタンスで紹介。
 フーコーはまあ、いちばん強いところなので。もっとも、時間がなくてざっとしかふれられなかったけど。ドゥルーズフーコー論に沿って簡単に議論を20分ぐらいで解説(無謀)した後、彼の議論を使っているアメリカのフェミニストの議論をいくつか紹介。しょうがないので(ってなんなんだか)ジュディス・バトラーについてもふれ、最後はすわりがいいので加藤秀一さんの議論へとつなげて締める。(いやもちろんすわりがいいだけではないです、ええ。)
 いちおうこれで今年度は終わり。来年度からカリキュラムが変わるので、こういうフェミニズム思想史みたいな講義はもうしない。今度こんな話を人前でするのはいつのことでしょう。

*1:クリステヴァの議論は、一橋大学の佐々木滋子さんのゼミにいたときに学んだものなのだが、佐々木さんご自身がそういうスタンスだったところがあるからかもしれない。なお、ゼミというのは、教養課程におかれているいわゆる前期ゼミと、後期の語学ゼミの両方。前期ゼミでは、1年目は浅田彰の『構造と力』を読んでいたようだが、わたしのときは丸山圭三郎の『ソシュールを読む』『ソシュールの思想』、翌年はクリステヴァの『ことば、この未知なるもの』だった。『ソシュールの思想』で丸山圭三郎クリステヴァにふれている箇所があって、その流れで『ポリローグ』におさめられている「一つの自己同一性から別の自己同一性」という論文を佐々木さんが訳したものを読んだ。ちなみにこれはのちに白水社から出た訳本に収録された原稿で、ワープロ打ちであった。ほんとうはわたしがレポータではなかったのだが、たまたま11月の頭で学園祭の直後であり、一橋祭実行委員だったレポータは疲労と風邪でぶっ倒れ、わたしにおはちがまわってきてしまったのである。こいつは今アジ研にいるはず。(やめてなければ。)しかし、このとき報告を肩代わりしなかったら、今こんな授業はしていなかったかも知れない。めぐりあわせとは不思議なもの、恩は売っておくもの、とこの時以来思っている。なお、4年の時に取った語学ゼミではクリステヴァの『詩的言語の革命』のC(第3部)を読んだ。ちなみに、当時のゼミテンは彼女のことを「佐々木先生」ではなく「滋子せんせー」と呼んでいた。もちろん「ササジュン」こと佐々木潤之介大先生がいらっしゃったからである。