「セクシュアリティの多様化」が意味するところ

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 なんというか、元の記事のキーワードであるはずの「セクシュアリティのパーソナリティ化」(あるいは「パーソナライゼーション」)ということばが曖昧すぎるので、最初何を言いたいのかよくわからなかったのだが、using_pleasureさんが「個人化」のほうでとらえているので、そっちで解釈することにする。ちなみにもう一つの解釈は「人格化」。現代社会では、セクシュアリティが個人の人格の重要な一部分をなしている、ということ。これでもなんとか意味が通じてしまうのが元の文章の怖いところ。(ほめているわけではない、念のため。)
 「セクシュアリティが個人化している」というのは、たしかにその通りではある。ただし、「名刺代わり」や「識別指標」という形で使われているものだと言えるのだろうか?
 むしろそれは、一つには掛札悠子が「私がレズビアンのひとつの現実である」*1と自己を位置づけてみせたような、社会的カテゴリーとしてのセクシュアリティを、自分が生きている現実や性的欲望に即して理解していくプロセスの帰結として出てくるものである。*2
 だがこのプロセスは平坦なものではないし、彼女が達した結論が誰にでもたどりつくことのできるともいいがたい。さらに、さまざまな自分語り*3の中で提出される「セクシュアリティ」からさまざまな「サブカテゴリー」が抽出されて、独自に流通し始めたりすると、実はそこで「資本主義」なるものと結びつく可能性も、確かにある。
 ただしその「資本主義」は、決して「生産主体の規格化と消費主体の規格化によって大量生産、大量流通、大量消費、大量廃棄」を生じせしめるような古典的なものではなく、むしろ微細な差異へと人びとの欲望を微分化していくような「資本主義」であるだろうが。*4
 「資本主義」は主にマスメディアを介して、人びとの欲望を並べ立ててみせる。「どこかにあなたの好みがあるでしょう?」。「好み」とは、提供されたアイデンティティでもある。
 これはいわば「セクシュアリティのカタログ化」とでも呼べる現象であるが、別に今さらことさらに言いつのるようなものではないだろう。その顕著な例が、主にヘテロ・セクシュアルの領域の話になってしまうが、アダルト・ビデオにおけるジャンルの細分化である。ひと頃、「AV女優ってみんな髪が長くて、お嬢様風で」と言われたことがあったが(80年代後半のこと)、今は誰もそんなことを言う人はいないだろう。年齢も、女優のタイプも、プレイも多様化した。「この中のどこかにあなた(の欲望)がいます」というわけだ。東浩紀にならって「データベース化」と呼んでもいいかも知れない。それは時には本人が気づいてもいない欲望のかたちを顕現させる装置である。
 ただしここで注意しなければいけないのは、微分化が進行してもなお、性的指向における「異性愛/非異性愛」という二分法と、それにかかわる価値体系は、社会の中に厳然として存在し続けているということだ。*5いや、場合によっては、微分化が進行しただけかえってわかりづらくなっているとさえいえる。商品化にともなう存在の認知が進んだせいで、状況が複雑になっているということもある。*6
 しばしば指摘されているが、これが元ネタでは完全に見落とされている。故意ならば犯罪的だし、知らないでやっているならお粗末すぎる。
 依然として存在する二分法と、一見「多様」になり、選択肢が豊富になったかに見えるセクシュアリティ、二つの両立。その中にあって、人びとは自分を理解するために、社会的カテゴリーを常に参照しつつ、自分なりの再構築を試みている。資本制にしがみつかれながら、あるいは逆に資本制に寄生しながら。セクシュアリティの「解放」をめざす実践は、確かに常に「支配」の体制と共犯関係に置かれているのかもしれない。だが、目指されているものはなんなのか? 「支配」が皆無の空間の創造? しかしそれが「ひきこもり」(これについては一つ前のネタ参照。「語らない」ことをここではこう呼んでみる)によってしかもたらされないものなら、そんなものをほしいと本当に欲することができるのか? いや、「ひきこもり」すら「支配」の体制の一部であるとしたら?
 今のところわたしには、二分法とそれに付随する価値体系が生み出す「苦しみ」を生きている人の「語り」に耳を傾け、それがなにかカテゴリーのあり方や「支配」の体制に影響を与える可能性を考えていくことにしか、注意を向けることができない。個別の実践が「支配」のあり方を、なにかより生きやすい別のものに変えていくことを期待しつつ、実践をよりあわせていくことにしか。


ディスフォニックかつポリフォニックに、自身からはみ出し、染み出し、自らにも反逆し、対位すること。なにごとかを識ろうとすることで自らも変異すること。

――M. N.

■参照したBlog

">jounoさんの批判。要点を的確に衝いている。

*1:『「レズビアンである」、ということ』、河出書房新社、p.215

*2:書いてから思ったのだが、これはすでにusing_pleasureさんがBlogで書いていることでもある。「ではそれが何か、と言えば、単純に言えばセクシュアリティに関わる社会的カテゴリーという社会的資源を、個人が社会的再帰性のプロセスの中で各々が独自に解釈しなおしていき、その社会的資源をもとに自己を構築していく、という、そのようなことに他ならない。」というくだりであり、ここから新しいダイナミズムが生じることも指摘されている。

*3:それは当初は、「語る」ことのできるスキルと、語りを伝えてくれるメディアへのアクセスが可能な位置を占めている人たちの、ある意味「特権的」な語りであったかもしれない。

*4:というわけで、U氏に「耳を傾けてくれる人はほとんどいない」のは当たり前である。もし彼が「資本主義」を引用の通りにとらえているとすれば、時代認識がズレすぎている。

*5:たとえばベタすぎる例だが、id:chidarinn:20050216#cのひらがなハンドルの書き手のコメントを参照。

*6:なお、ジェンダーに関しても同じようなことが言えるが、長くなるので省略する。