「家庭崩壊のすすめ」?
すげー脱力。
わたしの専門の一つに「家族」がどう作られてきたのか、ということがあるが、このページの下のほうの記述は、家族社会学等における近年の議論*1を全否定してくれている。というか、そういうこと以前であるが。
家庭科教科書で家族や結婚を否定的に教える
(例)家庭崩壊のすすめ
「例えば祖母は孫を家族と考えていても、孫は祖母を家族と考えていない場合もあるだろう。家族の範囲は全員が一致しているとは限らないのである。犬や猫のペットを大切な家族の一員と考える人もある。」
(東京書籍)
ペットを家族と思う人たちは実際にいる。と、同時にそう思わない人もいる。どうしてそれを記述することが「家庭崩壊のすすめ」になるのだろうか。まともに文章を読みとる力もないのかこの人たちは。
祖母は孫を「家族」と見なしていても、孫のほうは一緒に住んでいない祖母を「家族」と思わない(もちろん「一緒に住んでいる人」が、まず「家族」の範囲の第一義であると「孫」の側が思っているからかもしれないが)、ということは実際よくある。だが、だからといって、孫が祖母を「大事な人」と思っていないということにはならない。「家族」ということばで表現しないだけである。もちろん「大事な人」と思わないこともあるだろう。しかしそれは「家族」だと思っていても起こりうることだ。それはむしろ、個別の関係性に委ねられている。当たり前のことである。
こういうことを平気で書いてしまえるという、この政権党のレベルというのはいったいなんなのか。
わたしはこんな言い方をしたくない。したくないがしたくなる。ほんと、したくないんですよ? いいから、させるな。たのむからやめて。
莫 迦 で す か、 あ な た た ち は。
……絶望的な気分になるよな。
つーか、東京書籍って、どの教科書ですか。小学校用と中学校用と高校用とあるんですけど。
たぶん高校教科書でしょうね。
■何が問題なのか、についてもう少し
簡単に要点を列記しておく。
- “現実の記述”と“規範”の混同
- 主観的な家族の定義への転換とその理由の無視
- どのような文脈に置かれているかの無視
■“現実の記述”と“規範”の混同
たぶんこの部分が政権党の方々の気に障ったのは、「孫がおばあちゃんを『家族』と思っていないことを当然視するかのように書いている」からなのだろう。
だが、この教科書の記述はさまざまな調査に基づく「である」という現実の記述であって、決して「べき」という規範の話ではない。したがってもし上記のようなことが考えられているとしたら、はっきりいって「いちゃもん」のたぐいである。*2
教科書は「べき」を語る「べき」だという議論もあるかも知れないが、これは家庭科の教科書であって、「家族とはどうあるべきか」のような道徳的規範を語るようなものではないはず。*3また「べき」を語るにしても、その前に人びとの意識や家族の姿が現実にどう「である」のかは無視できない。わざわざこの記述を否定する理由には全くならない。
■主観的な家族の定義への転換とその理由の無視
さてその家庭科は家政学、あるいは生活科学と呼ばれるような領域での議論を踏まえたものであるだろう。家政学は応用科学の寄せ集めのようなところがあって、そのディシプリンの境界線が明確であるとは必ずしもいえないが、逆にそれが、家政学における「家族」に関する議論を、家族社会学や家族史、民俗学などの多様な領域に開いているという利点ともなっている。
ところで80年代以降、家族を客観的に形態面から定義することの困難が、家族研究では語られるようになってきている。時間的・空間的・階層的な家族の形態および規範の差はかなり大きいもので、それを統一的なかたちで表現することがなかなかできにくいということがわかってきたのである。
むしろ、「人びとがなにを“家族”と考えているか」ということへ問題を転換した方がいいのではないか、ということがそこで言われはじめた。さまざまな調査から明らかになったことは、人が「家族」と考える範囲は実に多様で、そのパターンをきちんと特定するのは難しいということである。同じ家に住んでいる「家族」内でも異なった「家族」の認識が実際に「ある」。(いいか悪いかは別。)この教科書の記述も、そうした定義の転換とその結果をかいつまんで述べたものにすぎない。
主観的な家族の定義(もちろんこれは法的・制度的な定義とはまた別な次元の話である)への転換には以上のような理由がある。つまり教科書にこうした記述が登場することには、ちゃんとした理由があるのだ。もちろん、学問的成果が全部その時々の教科書に反映されるわけではないし、させるべきでもないかもしれない。だが、まったく無視することはできないし、取り入れることを禁じることもできないのではないだろうか。
■どのような文脈にこの記述が置かれているのか
また、この部分は家族に関する単元に置かれているものだと思うが、そこで教えられる内容は、家族や地域社会を尊重しようというものである。そういった大枠がすでにあるのだ。
ここで述べられていることはせいぜい、祖母と孫の両者で「家族」の範囲をめぐる「すれ違い」があることがある、という事実の指摘である。どうもそこで何らかの道徳的規範の提示をしないと許してもらえないみたいだが、実際「家族を尊重しましょう」という枠がある以上、この部分がその枠を超えて受け取られる可能性はあまり高くない。
■一時中断
なんだか疲れてきたのでこのぐらいにするが(というか熱があるのですw)、まだまだ言いたいことはたくさんある。ほんとうは、こういうふうに家族における“べき”を語ることによってどういう効果があるのかとか、そういうことまで筆を進めたかったのだが。
いやそもそも先のリンク先のページは「ジェンダーフリー教育バッシング」のページなのであって、その本体についても言わねばならないことがあるはずだ。実際、思慮の浅さをさらしているというか、突っ込みどころ満載のページなのであるが。
■後記
うーん、あまりうまく整理できてませんね……。
*1:このエントリのジャンルが"sociology"なのはコトが社会学(たぶん人類学でも)での議論にかかわるからである。
*2:たしかに、特定の現実のみを特定のやり方で切り取ってきて提示することによって、ある規範をそこにメタレベルで具現させてしまうということは現実に起こりうる。というか、先のリンク先のページがその格好の例だが。(そのあたりは、http://d.hatena.ne.jp/namnchichi/20050516/p2などで端的に指摘されている。)しかし、教科書からの引用部分で述べられていることを、そういったふうに解釈するには、かなり無理がある。
*3:なのだが、実はあとで述べるように、家庭科教科書の中に「家族を尊重する」という、ある種道徳的前提が置かれているのも事実だが。