無観客試合の中継


 タイのバンコクで6月8日に開催されるサッカー・ワールドカップ(W杯)アジア最終予選北朝鮮―日本戦を生中継するテレビ朝日は、異例の無観客試合とあって「音」を強化して放送する。監督の指示や選手の声、ボールをける音をリアルに伝えようと集音マイクを通常より多く使用する。北朝鮮の監督や選手の声を伝えるために、朝鮮語の通訳も配置する。
 マイクは通常、ピッチの各コーナーやゴールネット裏、サイドラインに計6〜8本設置することが多いが、今回は監督や控え選手がいる両チームのベンチのそばを含め、さらに6本ほど使う予定だ。ピッチに最も近いハンディカメラにも集音マイクを取り付ける。
 過去のU20やU23の海外での試合中継で、観客が少ない試合の場合、監督の指示やサイドライン際の選手の声が集音できたことがある。今回は観客がいないため、「びっくりするくらいクリアな音が聞こえるはずだ」と臨場感を強調する。試合の状況に応じて、必要な音声を選んで流す。

 わたしたちがテレビなどでスポーツを観戦する場合、それは視覚情報としても聴覚情報としても「生」のものではあり得ない。テレビ局やラジオ局によって「編集」されたものを受けとり、それに対して反応しているのが実際のところだ。
 どのような「絵」を見せるか、ということがスポーツ中継では常に問題になるし、おそらく国による違いなどもある。局によってもモードが異なる。技術の進歩や時代による流行などもある。また、たとえば野球なら、プロ野球の中継の仕方と高校野球の中継の仕方ではかなり「文法」が異なる(清水諭、『甲子園野球のアルケオロジー』、新評論)。サッカーの中継もそうだ。現在のようにCMをハーフタイムに集中させるような中継が定着したのは、かなり最近のことだ。
 「絵」だけでなく、「音」もまた編集されている。いわゆる「臨場感」のあるテレビ中継の「音」は、スポットをしぼって特定の音をひろう集音マイクによって演出されているところが大きい。さらに、当然ながらスタジアムにはアナウンサーの声も解説の声もないわけで、「そこにいるように感じること」が「臨場感」の規準であるなら、これほど異質なものはないことになる。
 こう考えるなら、今回言われている「臨場感」も、テレビのスポーツ中継における新しい「文法」の創出の試みの一つに他ならない。「監督の指示やサイドライン際の選手の声」を、スタジアムにいる誰もが直接明瞭に聞き取るということはおそらくできないだろう。だからそれは要所要所でいちばんスポーツ観戦を楽しむことができるようにと、テレビ局側が(ある意味勝手に、かつ恣意的に)考えて作り出す「臨場感」なのである。
 もちろん、そうした努力が無意味だということではない。新しい試みとして大いに努力してほしい。そして、そうした努力の中から、これまでのテレビ中継の「文法」(「音」も「絵」も)のあり方を再考するということもあっていいだろうと思う。