どちらでもあること

 先日の記事(id:june_t:20050604#p1)へのトラックバックをいただきました。

愛、調和、献身、祈り。
家事って、生活のため/生きるためのものじゃなかったんだー知らなかったー。

 別に「献身」や「祈り」であってもいいと思います。山谷さんにとって家事が「献身」や「祈り」であるのは、別におかしくありません。でもそれは、家事が生活のために必要なことであり、「労働」である側面を否定できるものではないし、家事を「労働」ととらえることが必要である場面を排除するものであるべきでもない。ただそれだけのこと。(それだけのことがわからん人がいるから困るのですが。)
 家事は労働でもあり、同時に「祈り」という言葉や、そのほかの情緒的な意味が付与された行為でもあり得るわけで。「重ね描き」*1とでも言うのでしょうか。

■追記――「どちらか」にされていることの意味を問う

だが、この問題に関しては、それによってこれまで多くのものが隠蔽され、無視され、踏みにじられてきた。そのことに頓着しないのはどうかと思う。特に、山谷えり子氏のように、政治家という立場のある人間がそのように発言することによってもたらされるもの(もしくは、踏みにじられるもの)があることを指摘するのは、多少面倒であろうが必要なことではないかな、と思う。

 まあ、そういうことです。
 「重ね描き」されたA・Bという二つの解釈は、ある場合にはAが表面に浮上してBが見えなくなり、別の時にはBがきわだってAが隠されてしまうかも知れない。
 私人として「祈り」や情緒的側面が第一にくるのはむしろ当然かも知れない。ただ、そうだからといって、家事にはそういった側面だけあるわけではない。そして、わたしたちはどこかでそうわきまえているべきでしょう。
 問題になるのは、どういう場合にどちらが表面化し、それによってどのような効果(広義の意味で「政治的」な)が生まれるのかということなわけで。そしてこの場合は、paraphilianさんのおっしゃるとおり、主に「情緒的」な側が表に出ることの意味が問われるはずです。
 先ほど註で引き合いに出した山本+吉川の『心脳問題』でも、本来「重ね描き」されればよいはずの「心」についての二つの考えかた(脳の働きとしての心の動きと、生の感情等としての心の動き)が、「じつは」と「だから」という形で接続されてしまうことが現代の「流行」だとすれば、それはなぜなのか、どういう「政治的」な意味合いがあるのか、ということが最終的に問題にされますが、わたしたちの「問い」もそちらへ向かうべきで。*2
 単純に「気持ち悪い」とか「"jender"(これは別件)!」だけで終わってしまうのではなくて*3、せっかくならその先までふみこんで(もっとも、今回わたしは家事の話はBlogではスルーするつもりでしたが。理由はいろいろ。*4)……そう思っていたのですが、paraphilianさんがきちんとツボをおさえて応えてくださったので、ネタ振った甲斐があったかなと思ってます。


あ、「気持ち悪い」って書いたのはo-tsukaさんね。
http://d.hatena.ne.jp/o-tsuka/20050607

*1:大森荘蔵の提起した概念。『心脳問題』でこのことばを知ってからお気に入り♪

*2:わたしはけっこうこの本、読んでる途中から、「いろいろ“使える”んじゃないか」と思って昂奮していた(キモっ)のですが、早速使う場面がありました。まあ使ってみたかったのです。許して。

*3:いや、わたしも「気持ち悪い」し、そう感じることはたぶん大事ですが。

*4:つーか、今書いてる原稿のネタにしようかと。