「重ね描き」を問い直す――反省を込めて

 とまあ、エラそうなことを一度は書いたわけだが。

■実のところ一番の理由は

 みんながこの件とか“jender”を「ネタ」としてのみあつかっているのに、ちょっとジレたということなんだろうと思う。結果的にやつあたりになってしまってしまったparaphilianさんには、たいへん申し訳ないことをした。(反省(1)。)

■ただまあ、それだけというわけではない

 わたしがなんであんなことを書いたかというと、もう一つ理由がある。「近代家族」や家事の経済的価値、アンペイドワークの話とかを人前でしていると、きまって誰かから、「でも家事をするのは家族に対する愛情からではないのか」というセリフが飛んでくるのだ。これは男女をあまり問わず出てくる問いである。実際に家事を担当している人からも、そういう「反論」が来る。大学の講義だと社会人もいるし、また行政主催のセミナーは平日の日中行われるので、どうしても主婦層が参加者の中心になる。
 そういうときに、「自分としてはこう思う」という発言している側の素朴な信念、あるいは“実感”を無視して話をすると、そもそもこちらの話を聴いてもらえない。つまり、彼ら/彼女らはこちらの話の内容を聴いて理解した上でそういう反論をしてきているのではない。まず理解の前の段階でそういった疑問を抱くのである。
 別段そのこと自体に問題があるということではない。むしろ、日常的な感覚からしたら当然だろう。ただし、こちらとしては話を聴いてもらわないとならない。そこで、発問者がどういうバックグラウンドをもっているかとか、どういう意味がそこに込められているかとか、そういうことは抜きにして、「両方大事ですね」といってとりあえず先へ進む、という手段をとることが「実践的対応」としてはほとんどである。
 講義やセミナーの際には、こういう形でいったん自分の日常的経験・感覚をカッコに入れさせるというか、相対化させておかないと、その先の話ができないし無駄になってしまう。実際に相対化ができているかどうかはよくわからないが。
 ただ、こういうことが頭の隅にあったからといって、あのタイミングでparaphilianさんへのトラックバックとして書かなくてもよかったわけだ。(反省(2)。)

■家事をめぐる“実感”と「科学的言述」

 もう一つ付け加えれば、paraphilianさんが子守を例に出しているとおり、ある人たちにとっては家事はつらいもの、苦役でしかない側面もある。
 わたしもあるとき、同僚にこんなことを言われたことがある。

 「自分の子だから世話をするとかお金稼いでいるとかで家族の面倒をぼくらはみているわけだけど、Juneちゃん[註:呼び方はそのまま]は、別に自分の子どもだからごはん作ったりしているわけじゃないんだよね。」
 「ええ、まあ。」
 「ということは、純粋に愛情からそうしているわけだ。」(感服、といった面持ちで)
 「……えと、それは――」

 ……この時のわたしの当惑を、どうぞみなさんご理解下さい。(笑)
 どちらかというと、わたしにとっても家事は、ときには「めんどうきわまりないこと」である。(もちろん、楽しいこともある。)ただし、「やらないとまずい」という感覚でやっていることも多い。だから、「愛情」などということばで説明されかかると、カユい。(あ、カユいんだよやっぱ。(笑))
 もちろん家事とは「生きていくために必要なこと」であり、その意味でも「やらないとまずい」。だが同時にわたしにとっては、そのほかのいろいろなことと同様に「市民としてしなければ(orできなければ)ならないこと」でもあるから、なのかもしれない。働いて食い扶持を稼げること(実際に職につけるかどうかは運もあるが)と同じぐらい、ひょっとしたらそれ以上に大事なことである。*1
 だから、やる。ということで、どちらかというと政治的実践と同じ範疇のものとして、わたしの中で家事は理解されているかも知れない。「家」という生活領域の「統治government」の具体的あり方という意味で。*2
 家事を「つらい」と感じる人にしてみれば、経済学的に言えばそれは労働の一種であり、ではそこでどれだけの価値をもつものを自分は担っているのか、本来どう評価されてしかるべきものなのか(逆に言えばいかほどまでに自分が搾取されているか)ということは重大な関心事になるだろう。アンペイドワーク論は、ある意味そうした「つらい」という「実感」に立脚しているところがある。同じように、家事をある種の「せねばならぬ」つとめと感じるわたしは、近代以前の「統治」との対比で「家事(かじ)」を「家治(かじ)」との関連の中で「人としてのつとめ」としてとらえかえしたいと思っている、ということになる。
 ところで、「近代家族」の規範では、家事は「愛情」に立脚してなされるものという意味が与えられている。その規範を内面化している人にとっては、素朴に“実感”として「愛情」*3を家事をする中で感じてしまうことがあるのかも知れない。そういう人にとっては家事が労働であるとか、支払われない経済的価値があるなどといった考えは、時には「汚らわしい」とすら感じられるものになるのだろう。社会学歴史学ではポピュラーとなった感のある「近代家族」論は、こうした家族の愛情規範を相対化して議論の俎上に乗せようというものである。また同時に、「家事=愛情」は特に新中間層のイデオロギーであるということも指摘されている。たとえ“実感”だとしても、あくまでもそれは歴史的・社会的に特殊な“実感”だということである。

■「重ね描き」――「重ね」られているのは何と何か

 さて。
 だとするならば、『心脳問題』で言われていることとはちょっと性質の異なる「重ね描き」をわたしたちは問題にしていることになる。『心脳問題』では、脳の科学的理解と感情が「重ね描き」されているということが示されていた(あくまで本の中ではそういうものとして提示されていただけだが)。しかし、ここでは家事に対する複数の“実感”とそれぞれの“実感”を対象化するような「科学的言述」が存在する。AとBが重なっているだけではなく、同水準のものとしてA1、A2、A3……があり、それと別の水準に位置するB1、B2、B3……(あるいはさらにC1、C2、C3……)という言説群があるわけだ。
 山谷発言を思い出しておこう。(ヤだけど。)彼女の発言は「家事は祈りであるべきだ」という「政治家」の発言である。たしかにそれは「一政治家」の発言にすぎず、国家の政策ではない。(いや、ご本人は政策にしたいのかもしれないが。)とはいえ、それは単純な「一個人」の“実感”にすぎないかというと、そうではない。「科学的言述」とはいえないが、“実感”とは別の水準に位置するものである。もちろん“実感”を対象化する性格のものではなく、むしろここではある特定の“実感”を、そのままのかたちで肯定的に表現していくもの、またはある特定の“実感”を生産していく「規範的言述」としてあるわけだが。
 ただし、わたしたちが取るべき道筋はAとBだったときとあまり変わらないのかも知れない。家事は「つらい」と感じられるものであり、「楽しい」ものであり、「せねばならぬもの」である、しかも一人の人にとってその全てでもあるということは十分にあり得る。問題は、そうであるときにどのような関係が複数の、時には相矛盾し、対立する“実感”の間に存在し、社会の中でどのような政治的機能や効果を持つのか、そしてそれは違う水準の言説(B1、B2、B3……、さらにはC1、C2、C3……)とどのような関係に置かれているのか、ということだ。この問題の構造は同一である。
 ある種のフェミニズムが主張してきたのは、「家事=愛情」を強調することで性別役割分業の持つ不公正が隠蔽される、ということである。ただし、“実感”とは異なる水準の言説が、すべてこの種の不公正を指摘してくれるわけではない。実際、ある種の経済学を使って性別分業を正当化しようとすることも可能だ。そして、山谷発言も科学の体裁をとるものではないが、同じように性別分業を正当化するものにほかならない。
 だからわたしが「重ね描き」という概念を引き合いに出したことは、間違いではないにせよ、いささかミスリーディングであったといえるだろう。山谷発言自体は“実感”ではないからだ。


もっとも、そこで素朴な“実感”を想起させるところが、彼女の発言の巧妙なところであるのだろう。(もっとも、ご本人は実際何も考えないでしている発言かもしれないが。)これは、tamadareaoiさんのはてなダイアリのコメント欄(http://d.hatena.ne.jp/tamadareaoi/20050610#c)で、knoriさんが「政治家ってのはやっぱり一筋縄ではいかなくて、簡単には反論できないレトリックを使っている」と書いていることとつながるのかもしれない。knoriさんが言うのは「生き方」に通じる、いわば「価値」の問題のことだが。

なお、わたしの今回のエントリは、上記コメント欄に書いたことにもう一度手を入れ直したものです。

 このように、むしろわたしたちが直面するのは、いわば「二方向の多重の重ね描き」の状況といえるのかもしれない。*4そのあたりをきちんと分析的に、明解に述べられなかったことはやはりとがめられるべき。(ということで、反省(3)。)


ただし、気持ち悪いやカユがってばかりいるだけでは、“実感”レベルにすぎない。きちんとカユい理由を対象化しようね、ということは最初から最後までわたしの主張の中にある。

*1:こう書くと、それはあくまでも――成人男子を中心に置くものではなくても――成人を中心にすえた考えではないか、と言われてしまうかも知れない。それは否定できない。障がいがある人、子ども、加齢その他の理由によって体の自由がきかなくなった人などはどうする、と言われてしまうかも知れない。後ろ二者については、人生のいつでもそうでなくてはならないということではない、と考えていると言っておく。障がい者についても同様で、ある程度の依存関係はここではあって当然だとしておきたい。だいたい一人でいつでも仕事も家事も育児も介護も全部できるわけではないのだから。できる人の間にも依存関係はあるし、できる人とできない人の間にも依存関係はある。

*2:というのは実は語弊がありそうだが、かなりフーコー的な意味でこの言葉を使っている。

*3:という言葉で語ってしまうと、やや“実感”からは離れてしまうことになるかも知れない。なんというか、「愛情」という言葉で表現するのがわたしたちにとってはぴったりくるような、そうした感覚のことである。

*4:なんとなく、こう呼ぶのはよくなさそうだけど。