永幡幸司、「市民のイメージする80dBとはどの位の大きさか?」

 こう概要だけ見るとそっけないけど、たとえば新しく道路を造るとき、農村ではヒアリングに行っても、「便利になるから早く造れ」という意見が大勢を占めるという。騒音はあまり事前には問題にならない。それはなぜなのか。
 音の大きさ(たとえば「80dB」)を説明するときに、素人は数字を聞いただけではその音をイメージできない。だから通常は「このぐらい」を例示するのだが、生活体験のないものを提示されてもイメージできないのは一緒である。たとえば福島には地下鉄がないが、福島県の環境問題のパンフレットなどでは、「80dB」が「地下鉄の中」として提示されていたりする。だがこれではたして適切といえるのだろうか。
 先ほどあげたヒアリングの件に戻っていえば、道路を造ることで発生すると想定される騒音が、受け取る側がイメージできないような形で提示されること、そこにも問題があるということだ。「騒音公害」は、ある意味このギャップをもとに発生する。(騒音は音の大きさだけの問題ではない、というのはサウンドスケープ論の基本的な視角。)
 カナナ研では環境問題(音とか水質とか)の話だけで時間が終わってしまったけど、実は社会問題全般について同様のことが言えるはず。つまり、何かが「問題」として社会的に認知されるには、「当事者」でない人びとにもそれを「問題」として認知してもらわないといけないわけだけど、生活体験やその他の違いによって認知されないことがある。というか、すごく多い。
 ……というようなことを、今回はとある実験(たかはしも被験者になりました)のデータとその分析結果をもとにして、議論していきました。7月下旬の日本音響学会の研究会で報告される内容だそうなので、データそのものについてはふれないことにします。