例の絶版本について・続き

 以前、http://d.hatena.ne.jp/june_t/20060309/p2 で取り上げた内容の続き。某所に書いたものだけど、こちらにも転記しようと思ってずっと放置していた。
 あれこれブログ界隈を見ていて、どこで読んだか忘れたけど、「『科学とジェンダー』というテーマで安価な入門書がない」ことを指摘する記事を見た。絶版本で参考文献とされている本がのきなみ2,000円オーバー(シービンガーの訳本などは5,000円オーバー!)であり、一般には手の届きにくいものであるのに対し、ブルーバックスはほかの新書と比べるとやや高めではあるが、この本は税別なら1,000円を切れている。だから、絶版にしない価値があるのでは、ということらしい。(もちろんそのままの形で出し続けるということではなく、なんらかの手段を講じた上でのことだろうが。)
 ただ、わたしが見るところでは、今回絶版になった本は、「科学とジェンダー」という問題についての入門書として、あまり適当ではないのではないかと思う。
 「科学とジェンダー」という問題が提示される場合には、それは単純に「女性科学者」について語るものではないだろう。取り上げる対象が女性であるだけでなく、彼女たちの何を語るのか、どのように語るのかが問題になるということだ。科学の中で女性が占めてきた位置や、職業上の困難、彼女たちに対するこれまでの評価の再考、といったものを含んでいなければならないはずである。そうでないなら、対象が異なるだけで、これまで出版されてきた伝記本の『キュリー夫人』などとあまり変わりがないものになるから。なお、巷に溢れている『キュリー夫人』については、斎藤美奈子が『紅一点論』(ISBN:4480036660)で痛烈な批判をしていることも忘れてはならない。夫ピエールとのロマンスに比重を置きすぎている、若い頃に記述が集中している、など。
 この点、絶版本はかなり問題が残る。その概略を以下にまとめてみたい。ただ、これらの問題があるから出版するなということではない。あくまでも「科学とジェンダー」というテーマの入門書としてふさわしいかどうかという観点から、積極的に残したいとは思わない理由というだけのことである。
 なお、前回の記述と一部重複する内容がある。(1の前半部分など。)また、経緯が経緯だけに、やや厳しい評価を加えていることはご承知置きいただきたい。

■1 批判している問題、あるいは批判すべき問題の再生産

 たとえば、実はこれは小川眞里子さんの『フェミニズムと科学/技術』(ISBN:4000266365)の記述からの抜き書きになっているのだが、絶版本の14〜18ページでは、女性科学者が母や妻という「女性役割」で評価されがちなことが指摘されている。これ自体は重要な指摘で、今までの女性科学者に対する評価を再検討するという意味合いを持つものだといえよう。
 ところが、第3章末のメアリ・サマヴィルをあつかったコラムでは、結びの部分で「しかも彼女は、社会が求めていた“女性として第一に果たすべき仕事や行為”を決しておろそかにすることはなかった。」(p.123)とか、王立協会が彼女をたたえる際に仕事だけでなく家庭の義務も果たしたことを評価していると書かれている。
 王立協会の献辞の引用は歴史的事実の提示ということで必要かも知れないが、それに自らの言葉を重ねてサマヴィルの評価としてまとめてしまっては、やはり序章での指摘と矛盾するのではないだろうか。また、これまで女性科学者を家庭役割を果たしているかどうかで評価してきた(そこをクリアしないと業績が認められない)という問題を再生産してしまわないだろうか。
 また、ミレヴァ・マリッチアインシュタインの最初の妻)を扱った第7章のタイトルは「アインシュタインを支え続けたミレヴァ・マリッチ」。優れた男性科学者を女性が支えた「内助の功」という書き方が(意図に反して?)されている。
 第7章ではマリッチの研究について、資料不足のためなのか、最初の部分を除いてあまりふれられていない。章の残りの記述は、アインシュタインとの恋愛や結婚生活、離婚、彼の研究業績、子どもたちのことなどが中心である。資料から来る制約はいかんともしがたいのかもしれない。(彼女には刊行された論文はないらしいので。)
 この点はもちろん故意にそうしたというものではないだろう。ただ結果として、男性との愛情関係とか、精神病を患う子どもの母として生きたことなどが主に取り上げられることになってしまったのは、もしこれが「科学とジェンダー」をあつかう本だというのなら、非常に残念としかいいようがない。もうちょっと違う書き方や、資料を取り上げて議論するべきではないだろうか。まあ多少ないものねだりではあるが。

■2 用語・呼称の問題

 細かいことだが、非常に気になるのが「女性冠詞」や不均整な呼称の多用。「女医」「女史」など頻出する。ただ、「女子学生」「女性科学者」などの女性冠詞は、それぞれ「男子学生」「男性科学者」と対になった表現なので、ここでは除外する。
 さらは、第2章扉にある「女性版アインシュタイン」。これには正直頭を抱えた。男性の偉人になぞらえることが、エミー・ネーターの評価を高めると著者がお考えなら、「それはちょっと違うんじゃないの」といいたい。
 なお、第2章は本文もなかなかすごい。これももちろん肯定的に使われているが、第2章小見出しでは「男まさり」という表現がある。また、彼女が亡くなった時のアインシュタインのコメントの中で、おそらく「ミス・ネーター」を訳したものだと思うが、「ネーター嬢」という表記がある。さすがに50歳をすぎた女性について、「未婚」であるということだけで「嬢」と今さら訳すのはどうか、と思わざるをえない。*1
 なんだかこのあたりでは、「ことばとジェンダー」の授業で題材に使えるものがそろい踏みしている。
 その他では、「マリー・キュリー」と「キュリー夫人」が混在して用いられているのも気になるところ。悪い、ということではない。なぜだかわからない、という意味で。「××夫人」と夫の名前(姓)を使って、「だれそれの妻」と女性が呼ばれることは、彼女たちが生きた当時は当たり前のものだっただろうが、それをあえてこの本で用いるのは(しかもマリー・キュリーという別な呼び方も他方でしながら)、このあたりにあまり配慮がされていないということなのかもしれない。まあいいんだけど。
 また全体を通して、女性たちがファースト・ネームで呼ばれる比率が非常に高いように感じる。第5章だけは例外。ただしここでは「ウー女史」。orz たしかに「ウー」だけではすわりが悪いのはわかるけど。ウルトラマンの怪獣みたいだし。(古いってば。)*2

■3 その他

 これは別に必ずしも批判すべき点ではないのかも知れないが、序章でノーベル賞を受賞した女性科学者4人の写真が掲載されているのはいいとして、その他の部分でほとんど女性たちの写真が、ない。
 各章の扉部分を除いて、本文中では共同研究者と1枚、夫と1枚、写っている写真があるだけで、あとはみな男性科学者の写真や研究対象、家族(息子たち)のもの。これもなんだか、「科学史から女性が消されている」印象を強化してくれる。*3
 もちろん、取り上げられている女性たちの周囲に名前が知れた女性研究者がほかにいないので、使える写真がないということなのかも知れないが。しかし、比較的若い時期に撮影されたとおぼしきポートレイトを扉で使うだけでなく、もっと「お仕事です!」という雰囲気をもった写真を、とりあげた女性たちについては使ってもらいたかった。もちろん、そういう写真もない場合はしょうがない。古いところは、写真技術の問題もあるし。

 なおこの本、一点だけ評価できるとしたら、一人だけでなくたくさんの女性研究者を取り上げていることだろう。しかし、単に「不運にもノーベル賞を取れなかった女性たち・列伝」というだけならともかく、「科学とジェンダー」という問題にチャレンジするものとしては、この本をあまり認めたいとは思わない。残念ながら。

*1:思わず「もっとがんばりましょう」というハンコを探してしまった。(持ってないけど。)

*2:用語や呼称については、編集者によるチェックも効く部分ではないかと思う。出版社も、こういうテーマを扱うなら、もっとがんばりましょう。

*3:あ、そうか、「消されてきた」ことを視覚化して示すという意味があるのか!……いや、いいのかそれで。てか、ほんとにそれを目的にしてたのか。んなわけないって。