読了『他人と暮らす若者たち』

他人と暮らす若者たち (集英社新書)

他人と暮らす若者たち (集英社新書)

 「今年の3冊」に数えたときにはあげなかった理由だが、興味深く読んだ一つの理由は、わたし自身が「家族以外との共同生活」を間欠的に実践しているためでもある。
 つまり、週末は東京の「自宅」にいるわけだが、ここには現在のパートナー(住宅の共同購入者でもある)とその子ども2人(年齢的にはほぼ成人)が居住している。パートナーは性的関係も含めて配偶者、つまり家族に準じる存在といえるかもしれないが、パートナーの子ども(血縁関係も法的関係も不在)は必ずしも家族とはいえない。親密さは感じても、それは「パートナーの子ども」であるからであって、「家族だから」ということでは必ずしもない。(わたしから見てもそうだが、相手からもそうだろうと思う。)久保田さんが本書でいう、「他人と(旧来的な意味での)家族との中間的な存在」である。
 問題は、わたしにとって東京の「自宅」は、「家族以外との居住を行う場」であるのに対して、パートナーの子ども二人にとっては同じ空間が、まず第一に「家族との居住の場」であり、そこに「家族以外との居住」が周期的に食い込んでくる、という非対称性である。したがって、両者の経験は等質ではない。感覚も異なるはずである。おそらくは、そのあたりから「困難」が発生している。(家族と暮らしていると、家の中全体がいわば「二次的にプライベートな領域」*1であるのに対して、わたしからは、リビング・キッチン・バスルーム等は「パブリックな領域」であるという差異。)
 もちろん、「困難」ばかりではないことは、言い添えておきたい。

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*1:性的・身体的な部分を除外した私的領域、というような意味で述べている。