今日の教授会で

 どうにも腹に据えかねるというようなことがあったので書いてしまう。
 4月から福島大学は「国立大学法人」になったのだが、その関係か、毎年の「年度計画」というのを定め、どうやら公表もするようである。(今はまだしていないはず。)
 その中に曰く。「ジェンダーにかかわる教育に力点を置き、共通教育、専門教育で関連科目を開講する。」(要旨)
 ……いったいだれがやってきたんだと思ってるんだろうか。それって「大学の計画」なのか?
 赴任して2年目からの自主企画としての「女性学プログラム」(現「女性学・ジェンダー研究プログラム」)の設置や、自分の教えていた専門科目「生活文化論」や演習を女性学・ジェンダー論の内容にしてきたりしたことがその基盤だったはず。共通教育の総合科目「ジェンダー」の開講も自発的なものだ。知り合いの共通教育委員から、木曜1限の科目が一つ減るのでメニュー増で「ジェンダー学入門」を開講してくれないか、と言われた時も、負担増(相当の大人数の授業になるのである)を覚悟で承知した。
 その間大学は何をしてくれたんだろう。
 個人的にはいろいろとお世話になった人たちはいる。プログラムに登録させてもらっている人たちには感謝しているし、総合科目に協力してくれている教員も多い。そのほか2000年度からの新カリキュラム設置の時には、科目の内容に名称も合わせようと言って、「ジェンダー論」への変更を教授会で提案してくれた教授もいた。せっかくプログラムがあるんだから、学部の学生全員が目を通す『学習案内』にも載せようと提案してくれたのは今の副学長である。それには感謝している。
 だが、「計画」としてうたうようなことを何か大学としてやっているのか、福島大学は。
 ちなみに、「上に行くほど寒くなる」と通常比喩されるような状況が、教育界には存在する。幼稚園や小学校では女性教諭のほうが多いのだが(幼稚園で9割強、小学校で6割が女性、中学校では半分弱である)、中学、高校、大学と「上」へいくにつれて女性教員の比率は減っていく。もう一つ、職階別に見ても、やはり「上」である管理職(教頭、校長)には女性が少ない。大学で言えば、教授クラスには女性はまだ少ないし、学部長や学長はなおさらである。この状況は、教育を受ける側にとっては、「かくれたカリキュラム」として働く。つまり、別段教えたくて教えているわけではないが、結果的に高等教育の教員になれる女性は少ないのだとか、管理職になるのはたいへんだとか、そういうことを教え込んでしまっている、というわけだ。(もちろん教育には常に失敗はつきまとうが。)
 ところで、今度福島大学は全学を再編して、理科系の学部(学類か)を作るのだそうだ。では、そこに新規採用される教員のうち、一体何人が女性なのだろう。
 それはどうでもいいことなのだろうか。
 ジェンダーにかかわる教育に力を入れるということの中には、理科系に進学しようという女子生徒をさまざまなかたちでエンカレッジするということは含まれないということなのだろうか。(ちなみにEUにはそういう側面を視野に入れた政策がある。ETANレポートを参照。)
 要するに、すでにもう大学の施策とは関係ないところで教員が自主的な努力でやってることを「計画」として入れておいて、あたかもうちはジェンダー問題にも力を注いでます、というふりをしているにすぎないのではないだろうか。
 別に「見返り」がほしいと言ってるわけではないし、そういうことをやってる人間がこの大学にはいますよ、ということを宣伝するのは悪いことではないと思う。問題はあたかもそれを「大学が」「計画として」やっているように見せかけていることだ。それは事実ではないし、この問題について大学が大学としてやるべきことはほかにあるはずだ。
 それを先にやってからものを言え。そういうことである。
 まあ少なくとも学生の通称使用ぐらい認めるべきでしょうね、積極的に。現在大学職員・教員には通称使用が認められている。それは国家公務員として認められてきたことで、大学が努力したからではない。そして、通称を使用している職員が社会人学生として入学すると、戸籍名で呼ばれることになる。同じ大学の構成員として、教職員としては通称で、学生としては戸籍名で扱われるのである。区別ができてよかろう。……なんてことはまったく考えているはずがない。数年前から問題提起をしてきたのだが、何か検討しようというそぶりもないのが現実。
 なお、来年度から始まる新制度のもとで、共通教育に「キャリア形成論」というのが組み込まれ、必修化されている。必修化がいいのかどうなのかについてもいろいろ議論はあるだろうが(ちなみにわたしは反対。必修にするほどには教員に担当能力がある人間がいないから。もちろんわたしにもそんな能力はない)、ここではそれはおいておく。問題はその中身である。
 先日ある評議員から「今度キャリア形成論でジェンダーの問題を入れることになったから。」と言われた。ついては、そこで活用できるような資料を作ってほしい、と。
 「だけど、1コマだけだからね。あんまりたくさん作ってもらっても使い切れないかも知れない。それに、自分はできないという人は使わないこともあるから。」なんだそうである。
 まあ、できない(or やりたくない)のはかまわないと思う。正直でよろしい。(良い、と思っているわけではない。)問題は「1コマだから」という、そこである。こういうのを「ゲットー化」という。1コマにおしこめてしまって、あとは何にも考えなくてもいい、ということにほかならない。
 しかし、キャリア形成とはそういうものだろうか。女性(女子学生)にとって、自分が女性であるということは、少なくとも大学を出たその先を考える場合には、最初から最後までつきまとうことなのではないだろうか。公務員や教員なら男女関係なく働き続けられるということをよく聞くが、公務員や教員を選ぶのはなぜか、というところにそもそも「女性だから差別の少ないところで」ということがからんでいるはず(ゼロということではありません)。授業で学生に感想を書かせても、「これまで学校にいる間は男女差別なんか感じなかった。でも就職したら……」と書いてくる女子学生は多い。彼女たちはいやでもそれを意識せざるを得ない。
 それでもなお、1コマですむような問題なのか?
 もちろんわたしに依頼をしてきた評議員に罪はないし、わたしも彼を責める気はない。だから何も文句を言わずひきうけた。大学構成員としてのわたしの責任も当然あって、それについても言い訳はしない。
 でもまあ福島大学とはその程度、ということである。悲しいことだが。何か夢や希望を持たないでほしい。