コース入門科目・スコット「女性の歴史」

 今週は、ピーター・バーク、『ニュー・ヒストリーの現在』(谷川稔ほか訳、人文書院、1996年)に収録されている、ジョーン・スコットの女性史の研究史を読む回。
 今回はちょっと意地悪をしたのだけど、

    • 序論
    • 本論(1)プロフェッショナルと政治(1960年代)
    • 本論(2)歴史とイデオロギー(1970年代)
    • 本論(3)政治と理論(1980年代)
    • まとめ

というこの論文の構成のうちの(3)のところは、たぶん予備知識がないとなんのことかわからないな、と思いつつ、このテキストを指定した。さあどうなることやら。
 レポータはこれまでにゼミで指摘してきた点(文中に現われる二項対立に注意、論理構成を押さえるためにどこで区切るかに注目、等)を意識してレジュメを切ってきたが、案の定(3)のところでひっかかっていた。というか、そこでわからなくなったことに全体が足を引っぱられた報告になっていた。でも努力の跡は見えたよ、うん。
 実は前の二つが、「歴史学(者)vs.女性史(研究者)」という対立項になっており、後者による前者の批判が中心に論が展開していく*1のだが、(3)のところは「すでにエスタブリッシュの一部になった女性史研究vs.ポスト構造主義」という構図になっている、ということと、そのポスト構造主義の問題提起が「言語論的転回」というものであるということがたぶん理解しにくかったんだと思う。「言語論的転回」の内容もよく理解できていなかったと思うけど。*2
 ただ、ゼミをやっていていつも気になっている現象がやはり起きていたので、指摘する。明らかに報告はレジュメ棒読み状態だった。またそのレジュメ自体が、テキストの文章の単なる切り貼りになっていた。こういうときというのは、報告者の理解度が低いことが多いのだ。*3
 このうちの前者、つまり「発話のモード」というのは、けっこう重要だ。教員が講義でしゃべるときに、ノート棒読み風の発話では、まず聴き手に届かない。ゼミの報告だって、それと同じなんだと思う。また、しゃべる本人がきちんと内容を理解していないと、かみくだいた説明や、ここが重要というポイントを聴き手に分からせるように話すなんていうことはまずできない。そういうときはどうしても棒読み調になってしまう。
 議論をしているときにも、質問や返事を棒読み口調で口にしてしまっていることがある。心当たりのある方は多いのでは。そんなときにはやはり、うわべだけの形式的なやりとりになってしまっていることが多い。突っ込んだ本音のやりとりなどはできるべくもない。どんな発話のモードかは理解度の指標なのだ。
 実は報告の前半と後半で、レポータの発話のモードが微妙に変化するのではと思っていたのだが、終始一貫して棒読みだったのはちょっと期待はずれ。(笑)もっとも、しゃべっている中身を聴いていれば、半ばあたりからほとんどテキストをただ飛ばし飛ばし読んでいるだけ(だいたい9割以上、テキストの文字の読み上げになっていた)ということに気づいたと思うのだが。
 難しいテキストがあたったのは、今回のレポータには不幸だった。でも、これからいろいろ文献読んでいくと、わからないもの・わからない部分ってきっとあるんだよね。そういうときにどう報告するかということや、わからない部分をどうするかってことも、知っておく必要がある。
 これについて今日わたしなりの考えとしてしゃべったのは、とにかく自分のことばでわかりやすく説明できるところ(できそうなところ)をきちんとまず報告するということ。ゼミというのは学習のプロセスなのだから、わからないところはきちんと「わからない」と言ってしまった方がいい。みんなから意見をもらえばいいし、教員がきちんと解説することも必要。というか、発話のモードで聴き手は「あ、わかってないな」とわかるのだから、ごまかそうと思っても難しい、正直になれよ、ってことだろう。
 もちろん、当然分かっていなければいけないところがわからないのは恥ずかしいことだ。今日のところでいえば、ヴァージニア・ウルフの引用で「目立たない名称」と言われているのが女性史のことだとわからないのは、君ら全員ちょっとまずすぎ。(約1名わかりかけていたが。)
 あと、「ここわかんないんだけど」とレポータが言ったときに、まわりの人間が何か言えないと困る。ゼミはレポータがすべてではなく、参加者全員で作るものだ。「自分も分からなかったけど、こうじゃないか」とか。そういうフォローをする態度やフォローのしかたもぜひ身につけてほしい。これも一つの習得可能な技術だと思う。「わからない」は誰にでも言えるし、そこで「こうじゃないか」をひねりだしていくことも訓練次第で身に付くことではないだろうか。だが、今まであまりにもゼミでそういうことを教えてきていなかったような気がする。今年もまだきちんと習得させられていない。いろいろやり方はまだ工夫していく必要があるなと思う。

*1:(1)では女性史研究者がやっていることは、専門家としての歴史学者がやることでなくフェミニズムという政治運動ではないかと言われるのに対して、プロフェッショナルたる歴史学者そのものが、男性中心・白人中心という権力関係の中で自己形成されてきたのだから、まさにプロフェッショナルこそが政治的な存在なのだという批判を女性史の側が行なってきた、ということが言われている。既存の歴史学と女性史の対立は、プロフェッショナルと政治の対立ではない、なぜならともに政治的だからだ、ということだ。(2)でもほぼ同じことが言われているが、それに付け加えて、人口の半分をなす女性について言及しないような歴史学が普遍性を主張できるのはなにゆえなのか、また人口の半分について無知でいて歴史学者が専門家としての自己主張をできるのはどういう厚顔なのか、というようなことも言われている。ほかにもあるが省略。

*2:もっとも発想自体は、学部のカリキュラムではほぼ必修科目に近い「現代文化論」で触れられている。

*3:去年加藤眞義さんと一緒にやったフィールドワークのゼミで発見して指摘した。フィールドワークの授業のフィールドワークを二人でしていたわけだ。