昨日のこと

 マックス・ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中で、ふるさとを離れて工場で働いている少女がたいへん勤勉であるという事例をあげて、「土地から切り離された労働力は資本主義によくなじむ」みたいな話をしている箇所があったかと思うのですが。*1


 ごきげんよう、たかはしです。


 昨日はなんだか午前中はだらだらと過ごしてしまいました。
 午後になってもうこれは家事をするしかないと思って、ご飯をつくって食べたあと、洗濯機を2回回して、流しとトイレを掃除して(お風呂場はその前の日にすませていた)、不燃ゴミを整理したら、少しだけ気休めになったので、その気分を大事にして東京へ。


 そうしたらですよ。
 相方の家で昨日わたしがしたことは。

  • 流しの掃除。(簡単に)
  • 洗面台の掃除。(念入りに)
  • 床に散らばる新聞の整理。(ぶちぶちいいながら)
  • トイレの掃除。(まあふつうに)
  • 風呂場のタイルの掃除。(ざっと)

 ……なんで一日のうちに2回もトイレ掃除を。orz


 ああそうか。
 わたしはあの、土地から切り離された少女だったのだ。
 突然に悟りました。


 でも悟っても何もいいことがありません……。

*1:「何故ならば生地を離れるという事実だけでも労働強化のこの上もなく有力な手段となりうることは、きわめて明瞭だからである。(二四ページ註三をも参照)。――ポーランドの少女は、生地ではどんなに有利な金もうけの機会をあたえても伝統主義の惰性のために連れだすこともできないのに、その同じ少女がザクセン地方への出稼女として見知らぬ土地で労働をはじめるとまったく別人のように過度の搾取にたえるのである。」――M・ウェーバー、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』上、大塚・梶山訳、岩波文庫、1955年、p.34、註五、より。