『心脳問題』第四章、再訪

 ちょっと間が空いてしまったが、第四章後半。
 政治性の議論でフーコードゥルーズディシプリンとコントロールの話は単純すぎるような気もする。(というか単純であることは筆者たちにも十分意識されている。)

 規律=訓練権力は、単に身体を従順にするだけでなく、そこから引き出される力を増大させもする。つまり、人が権力に身を委ねるのは、見返りがあるからでもある。ただし――だからこそ――同時に抵抗も生じるわけだが。
 電子テクノロジーも同じで、個人が国家や世界にアクセスする機会を開くものでもあると同時に、個人の行動を監視し、コントロールするものにもなりうる。

 もっともこうした「支配のテクノロジー」の両義性は、脳科学についての議論では的確に整理されているので、議論の本筋をみれば特段問題があるというわけではない。

 なお細かいことを言えば、250ページの「力を持つ少数の支配者が権力を占有しているのではなく」という記述はいささかミスリーディングか。本書のこの前後では規律型とコントロール型の社会が対比的に述べられ、同じ文脈でこう語られているわけだが、そもそも規律=訓練権力は権力の自動的作動を最終的には目的とするもので、〈支配するもの〉がすわる座は、いわば空白のまま残されている。必ずしもそこでの「支配者」は、特定の人格である必要はない。また、規律=訓練権力は限られた空間で少数の人間が対象となるような場合に、生権力は開放された空間で大人数(一国の人口のような)が対象となる場合に、それぞれ力を発揮するもの、とも言われている。(ドゥルーズ、『フーコー』、邦訳114-115ページ。)規律=訓練権力の「支配者」はあちこちに散在しているといってもよい。かつその「支配者」は原理的には誰でもよいわけだ(パノプティコンの例のように)。*1「力を持つ少数の支配者」ではないということだ。
 だからむしろこの対比は、権力の主権モデルとそれ以降の対比としてのほうが適切かも知れない。


つーか、いやな性格のフーコー読みっぽく、ちょっとベタすぎるぐらいベタに読んでみたりなんかしました。すいません。>おふたり

 あ、あと、リー・シルヴァーの「ジーンリッチ階級」と「ナチュラル階級」(266ページ)っていうのを読んで、「むむっ、これはコーディネーターとナチュラルかっ!?」とかつぶやいてみたりなんかしちゃったわたしがいます。(w

*1:もちろん、現実にはそうはいかないが。