清原なつの、『私の保健室へおいで……』

 少女マンガの文法を踏襲し、正統派のラブコメを描きつつ、そこにさまざまな彼女ならではのモチーフを描きこんでいく。それが清原なつのの作品の魅力だろう。
 いきなり余談で申し訳ないが、たとえばそのひとつが「性」ということになるのだろうか。
 しかし彼女の作品の中で、男の「性」はほんとうにどうしようもないものとして描かれている。「ゴジラサンド日和」のじーさんもそうだし、「ロストパラダイス文書」もそうだろう。「空の色 水の青」で幼い少女に対して性暴力をふるう男も同じ。だけどもちろん、「そうでない」男性も清原は描こうとしている。自分をいとおしんでくれる男性の性をなんとか「肯定したい」という女の子の気持ちも。だから百合は一ヶ月逢えない彼に、自分の写真を渡すのだ。
 作中の少女たちと少年たちの関係は、ポピュラー文化によく見られるように従属的な関係であることも多い。男の子は夢を見て、女の子は彼の夢をかなえるべく協力したり、彼を見送ったり、彼の横で生きようと自分の夢を作りかえたりする。猿は人間の望むカードを持ってくるというお話は、まさにそれを象徴的に示している。清原はたぶん、「わかって」いるのだ、もちろん。
 でもね、ということだろう。女の子たちはいつまでも彼の夢に従属してはいない。彼の夢を自分のものとし、そこから自分の道を切り開いていくのだ。だって、男の子の「夢」からして、自分だけのものではない。それは多くの場合、「誰かの夢」を自分なりに「夢見なおした」ものなのだから。
 表題作の主人公の養護教諭・千代子もそうだ。彼女は彼の「夢」に寄り添える位置にいた。それが彼女の「夢」だったのかもしれない。しかし、彼は死んでしまった。彼女の「夢」は、あるいは彼の「夢」は、そこで意味がなくなったのだろうか? 意味がない、と感じた彼女は、アル中寸前にまでいたってしまう。*1
 でも、いやそうではない、というのがこのお話だ。そうであるはずだ。彼はつらいことばかりを経験していたわけではない。ダメージを受けてばかりだったわけではない。よろこびも感じていたのだ。そう、彼の「夢」はかなっていたのだ。
 彼女の保健室に来る生徒たちが、彼女のことばから彼と彼女の「夢」を再び作りあげた。自分たちの「夢」を紡ぎ出す力とするために。「夢」とは相互作用のなかにあるものなのかもしれない。
 そして、保健室の彼女は「夢」を語る人になる。生徒たちが「夢」をはぐくむ力を得ることを自分の「夢」とするために。

私の保健室へおいで… (ハヤカワ文庫 JA (696))

私の保健室へおいで… (ハヤカワ文庫 JA (696))

 ちなみに「ロスパラ文書」へのコメントはまとめている最中なのですが……うまくまとまらないです。(をい)

*1:だけど、消毒用のエチルアルコール飲むのはやめとけ。つーか、不味いし。