清原なつの、「ロストパラダイス文書」
http://d.hatena.ne.jp/june_t/20050615/p4 からの続き。
via http://d.hatena.ne.jp/duchesnea/20050530
http://d.hatena.ne.jp/asamioto/20050615#p4
以下に収録。
サボテン姫とイグアナ王子 (清原なつの忘れ物BOX (1))
- 作者: 清原なつの
- 出版社/メーカー: 本の雑誌社
- 発売日: 2005/05
- メディア: コミック
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先ほど『私の保健室へおいで……』へのコメントで書いたように、「性」をモチーフにした中篇。
あまり過剰な寓意を読みとるべきではないのかも知れませんが、以下少し妄想気味に突っ走ってみることにします。
この作品、必ずしも一貫したロジックによって貫かれていると言い切れない側面を持っているのかも知れません。たとえば農村の人口減とか、そういうことも含まれているのかも知れません。ただ、ここでは性、特に女性のセクシュアリティと生殖力に焦点をあてて読み解いていきたいと思います。その意味ではかなり切り捨ててしまった部分があることをご了承下さい。
なお多分にネタバレしており、かつ性暴力について触れていたりするので、続きを読まれる方も念のために一呼吸おいてください。(※最初アップしたものに、7/3若干手を入れました。大筋は変わっていません。)
■ストーリーの概略
まずは、大まかなストーリー。
単位を落としそうになった女子学生が、教授に「何でもします! 奴隷になります!」と泣きつくと(このとき眼鏡をかけた老教授が読んでいるのが「ロストパラダイス文書」)、とある村へ伝承採集のフィールドワークに出される。出かける前に彼氏とセックスをしている最中、「ときどき行方不明になるらしいから気をつけろよ」と忠告される。
そして、村に行く途中、バスから降りて歩いているうちに霧にまかれ、崖から落ちて気を失ってしまう。
気がつくと、老婆の家に寝かされている。温泉であたたまって、「今日は祭じゃ」という老婆に酒を飲まされ、酔いつぶされる。
このあたりまではまだ「現実」感があります。
そのまま祭の舞台にあげられた彼女は、禁忌を破って兄・妹で結婚した老夫婦が拾って育てた「ウリコ姫」の役を演じさせられる。劇中では、「アマンジャクがきても絶対戸をあけちゃいけない」と養父母にいわれたにもかかわらず、戸を開けてしまい、アマンジャクたちにさらわれて強姦され、妊娠しなかったので処刑される。
ここで彼女は「目が覚める」。気がつくと、先ほどと同じように、老婆の家にいる。
先ほどまでのことは、崖から落ちて気を失っていた間に見た夢、ということになってるんでしょうか。
温泉に入っていくようすすめられたところで、このあとの展開に気づいた彼女は、「忘れ物をしました!」と家を飛び出して、村を出ようとする。しかし霧にまかれ、迷ったところで男に出会い、車に乗せられ、飲み物を勧められ、酔いつぶされる。
以下、先の引用部分と同じ。そして、気がつくと、また……。
と、この部分がやや変奏をともないながらの繰り返しになっています。
場面が変わって。
「それで……帰って来ないんですか?」と女子学生が教授に尋ねている大学のシーンに切り替わる。そして実は、老教授は送り込んだ女子学生がどういう目にあわされるか知っていた、というオチ。
さらに場面が変わって、村の情景。送り込まれた学生が子どもを抱いている。彼女は「もう戻れなくていい」と諦めたとたん妊娠して、村の若者と結婚している、ということのよう。
■しかけ
長くてすいません。
どうも、お話にはいろいろしかけがあるようです。説明しやすい順序で取り上げていきます。
(1)くりかえし(ループ)
ストーリーのところで述べたように、彼女は村とそこで彼女を待っている運命から、どういう選択をしても逃れられない、ということになっています。処刑されるところでいったん意識がとぎれ、ふたたび村に到着するところで目ざめます。
(2)「現実→幻想→現実」という構造
主人公の女性は、現実(大学→恋人との時間→村)からスタートし、幻想世界(「物語」「民話」の世界)へまぎれこみ、そこから抜け出せなくなります。この「抜け出せない」ということも幻想の一部なのかも。最初現代風の衣服をまとっていた村人たちが、幻想世界では粗末な野良着を着ていたりします。
そしてラストでは、彼女の行方不明事件が「物語」として現実(大学)から語られ、かつ彼女自身も妊娠→出産を経て現実(村)の生活へ戻ってきます。
(3)「舞台」「演劇」という装置
必ずしも西洋の舞台演劇のように、はっきりと様式化されたものではありませんが、途中彼女は「舞台」に上がり、「ウリコ姫」を演じます。
■意味
さて、麻美さんも「ループが怖い」というようなことをおっしゃっていますが*1、このループにはどういう意味があるのでしょうか。
一つは、この1回限りでなく(というのは教授の言動からもわかるのですが)、過去から繰り返されてきたことだということの強調と、どうやってもこの運命からは逃れられないということの強調なのかなと。そしてたぶん、「この世界には同じようなことが満ちあふれている」ことの隠喩、なのでしょう。
つまり、「ずっと」そして「いたるところで」。
過去から繰り返されてきた、ということは、たとえば(2)で書いたとおり、村人の衣装が現代的なものでなくなっていくことからも連想できそうです。だからこそ教授が読んでいる文書になっているわけですし。
「演劇」や「舞台」という装置も、ループを意味しているのかもしれません。つまり、演劇とは役者が代わっても、再び演じることができるものですから、姫の位置にどんな女性がきても、アマンジャクを誰が演じても、このことは起こりうるということになるわけです。
それはなにも、強姦やこうした嫁とりが常態であるということを直接的に表現しているということではなく、女性のセクシュアリティが置かれている状態を比喩的に表現したものであると言えるのかもしれません。
もっとも同時に、「劇」として描くことは、これが直接的な「現実」ではないという効果(緩衝作用)を読者に与えるものでもあるかもしれません。つまり、こういう現実がいたるところにあるよと一方で言いつつ、あまり生々しすぎないように、「これはお話ですけどね」ともう一方でささやく。
麻美さんがすでに指摘しているように、この主人公の女性がかなりセクシュアルな存在として描かれていることには注意するべきでしょう。まず、恋人とのセックスシーンが描かれます。つまり、彼女は性体験が豊富だということ。そして身にまとっている、ミニスカート、ヒールの高いサンダル、など。
また言いつけにそむいて戸を開けてしまったり、男の車にのこのこ乗り込んだり、「軽率」でもあるように描かれています。だけど、「軽率」であろうとなかろうと、どういう選択をしても、結末は一緒、ということが、「ループ」によって示されるわけですが。
そして、主人公の女性がこのようにわざわざ性的なものとして描かれているのは、duchesneaさんが指摘しているように、
・・・これは、強姦される側に落ち度があるというのがあまりにも「嘘」だということが書いてあるのだ、きっと。だけどそれを説明するのになぜこんなにしつこく「選択」の場面を描かねばならなかったのか。ヒールを履いていようがいまいが、戸をあけようがあけまいが、アマノジャクが妊娠する女を欲しがる限り、強姦されるってことだ。何度分岐点に戻って反省しても防ぎようがないってこと?
という清原なつのの「強姦神話」(「強姦されるのは、女がセクシーな服を着て、無警戒だったから、つまり女に隙があったから」というような)への異議申し立てだと考えることができると思います。
しかしこの作品には、ほんとに性的な隠喩がたくさん出てきます。「奴隷になります!」もそうだし、他にも、好きでもない山芋を「おいしい」とかじらされること(フェラチオ?)とか、よく熟れた柿(成熟した女性のこと? あるいはやはり男性?)とか。
つまり、「ずっと」「いたるところで」そして、「どうあっても」、逃れられない運命として、この世界では女性は強姦され続けなければいけないのだ。許されるのは、妊娠して「母」となることによってのみだ。
……と、まるでこう言っているみたいです、この作品。
もう一つ怖いのは、彼女は妊娠する前に「あきらめている」、あるいは「あきらめさせられている」ということです。そのとたんに、繰り返される強姦と処刑のループから離脱できるようになります。セックスが「強姦」であることを受け入れたとたんに妊娠し、解放されるって、すごく逆説的。どちらかというと、こっちのほうが恐ろしいかも。
そして、彼女が戻りたいと願ったのは、大学であり、恋人のところだったわけですが、つまりそれは、知識を得る場であり、自分のセクシュアリティおよび生殖力を相対的に自己管理しやすい性関係だったわけです。だけど、それらをあきらめたとたん、つまり自己決定権や知識を手放したとたん、彼女は無限ループから解放される。
ちょっと無力感に襲われてしまいそうになります。
……でも、なんだかそうすると、あまりはっきりしませんが、老教授(男性)の役割もぼんやりと見えてきたような気がします。
結局大学の教師であろうとも、男性(あるいは家父長)は、女性をセクシュアリティを他人に委ね、妊娠するだけの存在、としてしか見なしていない、ということなのかもしれません。あるいは大学だって、そういう存在としての女性を世の中に送り出す、それだけのシロモノだと。「フィールドワークしてこい」(=勉強しろ)とはいっても、結局は「妊娠したか」ということだけを教授は気にしているわけです。
こういうお話を描いちゃう清原さんってすごい。と思いました。単行本未収録作品だったわけですが、なんで未収録だったんだろう。いや、こういうすごい作品はなかなか収録できないのか。
どうなんでしょうね。
まあ、清原さんの作品をきちんと全部目を通しているわけではないので、あくまでもいくつか読んでみての感想ですみません。こんなことを考えさせられたということで、受け取っていただけたらと思います。いろいろと読み違いしているところもあると思いますが。