本日のワイン

 「おはようございます、ご隠居*1
 「おやクマさん*2、お入りお入り」
 「あれ、もうご機嫌なんですか。相変わらず、朝酒も朝湯も大好きでいらっしゃるんですね」
 「今日はまだ風呂には入っちゃいないよ。ところでなんだい、それは」
 「ああいえいえ、貴腐ワインのいいのが手に入ったんで、ご隠居にぜひと思いまして」
 「おや、そいつはありがたい。なになに、『むねてるめ』……?」
 「いやですよ、ご隠居、『そおてるぬ』ですよ、『宗輝奴(そおてるぬ)』」
 「軽い冗談じゃないか、そんな大きい声をだしなさんな。あたしの死んだ亭主がね、これが好きで好きで。なんたって甘い酒は俺ののどに悪いって、どういうリクツなんだかしらないが、とにかく千成りびょうたんとかいう地元の酒も、一生口にしなかった人がだよ、『そおてるぬ』の貴腐ワインだけは飲んでたんだ。それでいつだったか……」
 「相変わらずその話になると口数が多くなりますねえ、ご隠居。千成りびょうたんじゃなくて、『千功成(せんこうなり)』でしょう*3
 「それそれ。わかるんだからいいじゃないか」
 「あたしはあのお酒、嫌いじゃありませんけどね。それはそうと、いかがでしょうか」
 「ふむ、なになに。(とエチケットを読む。)『シャトー・ギロー、AOCソーテルヌ・プルミエ・クリュ・クラッセ』の1998年か。どんな年だったかねえ」
 「たしか、隣の八っつぁん*4がまたすったもんだやった年じゃあ……」
 「いや、あれはたしかその次の年、ってあんた、そうじゃなくて。菩流堂(ぼるどう)の天気だよ、天気」
 「ははは、“びんてえじ”ってやつですね」
 「わかってるじゃないか。でもまあ、舎塔の名前や天気よりも、なにより酒は飲んでみないことにはねえ。ちょっと待っておくれ、たしかこのへんに……あったあった」
 「ご隠居、たもとからワインのコルク抜きがなんで出てくるんですか」
 「いいじゃないか、ご都合主義ってやつさ。さて、こうやって、と」
 「湯飲みしかありませんね」
 「しょうがないだろ、我慢しな」
 「水飴みたいな色ですねえ」
 「そうだね、まあこういうもんさ」
 「ではお先に――とっとっと、覚悟はしていましたが、こりゃ甘い酒ですねえ」
 「お前さんが持ってきたんじゃないか。文句をいいなさんな。うん、バカうまだ。たしかに甘いが、しっかりと渋みも利いてる。若いともっと酸味があるもんだが、これはうまくこなれてる」
 「でも、こりゃあ焼き鳥や刺身には合いませんね」
 「考えもしなかったよ。料理と一緒にいただくもんじゃないね。果物や甘いものと同じですよ、食後の“でざあと”だね。うんと冷やしといて、ごはんのあとでちょこっと楽しむ」
 「では、今日の晩ご飯の後にでも」
 「いただかしてもらうよ。せっかくだ、クマさん、あんたもおいで」
 「こりゃあごちそうになります」
 「さては狙ってたんだろう」
 「いやあ、ご隠居のご慧眼には恐れ入ります」

※この物語はフィクションです。

*1:角の金物屋のご隠居。好きなものは朝寝、朝酒、朝湯。身上をつぶす前に店のことはすべて娘夫婦にまかせ、夫を亡くしてからは悠々自適の毎日。

*2:名工藤昌枝。「ちょっとうちのババァのようすを見てくる」といっては実家近くの競馬場に出かけるギャンブル好きの夫と長屋で二人暮らし。

*3:福島県二本松市檜物屋酒造の酒。純米酒が甘口。

*4:フルネームは中村八重子。バツイチ。