“文学少女”と味を覚える過程(プロセス)

三島由紀夫の『潮騒』は、海からとれたばかりのほたて貝の味ね! 無垢な少女の肌のように、なめらかで、ミルク色で、口に入れると無限の海の香りがして、噛みしめると、爽やかな甘さが広がるの」
野村美月、『“文学少女”と恋する挿話集3』、エンターブレイン、2010年、18ページ

 物語を「食べちゃいたい」くらい愛している天野遠子は、ふつうのものを食べても味を感じないが、本をちぎって口に運ぶと、雄弁にその「味」について語り出す。なぜ食べものの味が分からないのに、物語の味を食べもの・飲みものにたとえられるのか?

 遠子先輩は、ぼくを見てやわらかく微笑んだ。
 「お父さんとは小さい頃、よく本の食べ比べをしたわ。お父さんの膝で、一冊の本を二人で両端から千切りながらいただいて、この本はふわふわのオムライスの味だとか、揚げたてのドーナッツの味だとか……お話しをするの。(中略)もっと小さい頃は、お父さんが、ハンバーグはこういう味だよとか、シチューはこんな味がするんだよ……とか言いながら、本を食べさせてくれたわ」
野村美月、『“文学少女”と神に臨む作家』上、エンターブレイン、2008年、36-37ページ

 感覚に「ことば」を与えていくプロセスを、家族の中で彼女も経験している。
 また、先ほど述べたように、テレビニュースのグルメコーナーを録画して、想像力とあわせて表現を磨いてもいる。

■追記(5/12)

 ……という話を、講義でするためのメモでございました。今回はわりとうまく話せたみたいで、感想メールに「遠子さんの話はインパクトありました」「“文学少女”を読んでみたくなりました」とか書いてあった。講義が終わった後、帰ろうとしたら呼び止められて、「“文学少女”、いいっすよね!」とアツく語られたし。

■再追記

 そういえば、TwitterでデルタGさんに、なぜかこの記事を紹介してもらいましたが、読みに来た人は7人(うち一人はわたしで、もう一人も特定されているw)でございました。