特殊講義:「第二の波」のフェミニズム・まとめ
米日のSecond Wave Feminismのまとめ(前回分も含む)
- アメリカの「若い派」の思想と運動
- 左翼運動への強い敵意
「階級ではなく性が基本」=「ラディカル」(根源的)と呼ばれる由来
運動面では組織のヒエラルキーや権力構造を批判
理論的には、両性の関係を「支配−従属」の権力関係ととらえ(「性階級」の発想)、その支配が経済的・法的領域だけではなく心理的・文化的側面にまで及んでいると主張。その際のさまざまな権力装置が、家族であり、結婚制度であり、宗教であり、さまざまな知識(人文・社会・自然科学)であると考える。 - ラップグループ(相互批判小集団)の組織による「意識昂揚Consciousness Raising」の実践
=小グループで個人的な経験を分かち合い、それぞれの経験が共通の抑圧という一般的な構造につながっていることを理解する手段。「個人的なことは政治的なことである(The personal is political.)」というスローガン。(※「運動とその外部」の制度化でもある。) - セクシュアリティへの着目
セクシュアリティ=もっとも「個人的」なこと
特にアメリカでは、精神分析理論の支配に対抗するために必要。
→ペニスの「欠如」による女性のアイデンティティの定義や「膣オーガズムの神話」への批判
さらには、レズビアニズムの政治化――ラディカレズビアンズ(Radicalesbians)の「女性と一体化する女性(woman-identified women)」や、ティ=グレース・アトキンソンの「フェミニズムは理論、レズビアニズムは実践」など。
NOWの「年長世代」の女性たちの中にはこうしたレズビアンたちの主張を、「ラベンダー色の脅威」ということばでもって受けとめた者もいた。(ラベンダーは当時のレズビアンを象徴する色。) - 新しい概念の創造、特に「家父長制」概念
「社会制度、政治制度および経済制度を通じて女性を抑圧する男性の権威システム。家父長制社会が、封建制、資本制もしくは社会主義といったいかなる歴史形態をとろうとも、セックス-ジェンダー・システムと経済的な差別システムは同時に作動する。家父長制とは、家庭の内部および外部の権威構造から生じる資源と報酬を、男性がより多く利用したりその利用を媒介する権力のことである。」(M. Humm)
- 左翼運動への強い敵意
- アメリカの「第二の波」・小括
- 小集団をベースとする多様な運動・多様な試みと全国組織の結びつきがあった。
- 「主体変革」と「社会変革」がうまく結びつく局面があり、さらに「主体変革」がCRによって制度化(定型化)されていたこと。
- 知識批判から新しい知の構成へと向かう動きが見られたこと。(註:今回は割愛。女性学やジェンダー研究の形成につながる。)
- 日本のリブの特徴
- 役割にとらわれない「生身」の女、身体性の露出
「女の痛覚を出発点に」(樋口恵子、リブ大会の司会を務めて)
特にセクシュアリティをめぐる問題の表面化。
――「抱く→抱かれる」の関係から「抱く⇔抱く」の関係へ(女性の性的主体性と自己決定権の認識) - 母であること、妻であること、そして女であることの問い直し
「××さんの奥さん」「○○ちゃんのママ」でない、直接的な人間関係へ
「家婦と娼婦は一つ穴のむじな」(田中美津)
家族批判から家族創造へ
――近代家族の中の女性のあり方の批判と同時に、新しい共同性をどう創り上げるかを模索(コレクティブ、コミューンなどの設立、事実婚の試み、etc.) - 「『いま・ここ』にいるわたし」からはじめる(運動の主体はどこか遠くにいるものではない)
→女性のアイデンティティの内面に切り込んで、矛盾を明らかにしていく - 切り裂かれたものとしての「自己」
「反抗する女」と「従順な女」の同居(「とり乱し」というキーワード)
――運動に参加する主体は、決して一枚岩の主体ではない。
「被害」から「加害」の認識へ
――沖縄やアジアを見通したときに、そこから逆照射される「日本」「本土」の女性とは
「産みたい私」と「産みたくない私」
――ともに「私」であることをひきうけること - 言語実践――「わたし」を語るためのさまざまなことばの試み
口汚い言葉をあえて使う。
「あたし」が主語の自分語り(田中美津)
「婦人」→「女性」→「おんな(女)」への移行
――性的なニュアンスがある「おんな(女)」をあえて使うことによるひらきなおり - 運動形態
パフォーマンス(運動も楽しんでやる)→コンサマトリーな運動の重視
「井戸端会議」(一種のCR)=自分の状況からの出発
ネットワーク作り
生活そのものの問い直し(コレクティブ)
- 役割にとらわれない「生身」の女、身体性の露出